| 《少年の日々》 昭和15年1月9日に神戸で生まれた。父の信一郎氏は大きな病院の院長で、 君平さんはその6人兄弟の4番目として裕福な生活をすごした。 戦火により家を消失し、和歌山の親戚に疎開し、やがて終戦。昭和22年、 神戸に病院が再建され、名門雲中小学校に転校した。多感で好奇心の強い君平さんは、 戦後の神戸の街で我がもの顔で徘徊するアメリカ兵や、生きるために這い上がろうと する人々の姿を、のちに「くんぺい少年の四季」に描いている。 昭和28年。浜協中学に進学するが、父の死をきっかけに家が破産し、東一家は離散した。何不自由なく生活してきた少年には、それは辛い生活だった。 働きながら中学へ通い、鰹節工場の手伝い、蒔き割り、鶏糞の俵担ぎ、何でもやった。 |
| 《さまよう青春》 昭和30年。中学を卒業後、母や兄を頼って、家出同然に上京する。しかしあまりの貧しさにがっかりした。おまけに東京の流れの速さにもついていけず。 敗北感を味わう。熱海の写真屋で住み込みで働く。隣に住む尚美ちゃんの「お兄ちゃんは絵描きさんになるといいのに」の一言で、本格的に絵を描くよう になる。画材に苦労した君平さんの手法は、印画紙を保護するための黒い紙を使った切り絵だった。それを安全カミソリで切り抜いては、小さなスケッチブックに貼った。自分の将来を模索していた君平さんは、水を得た他魚のように、夢中で身の回りの情景を描き続けた。熱海時代は君平さんの原点となった時期であった。 |
| 《夢をおいかけて》 18歳になると、「絵描きになる」とうい夢をかかえて上京。築地の新聞販売店 で働きながら、中央大学付属高校の定時制、お茶の水美術学院にも通ったが続かず、その後、東中野の写真屋に住み込み、作品を作っては、出版社や新聞社に持ち込む。 昭和34年、仕事をもらえるようになり、中野区鷺ノ宮に友人と小さな部屋を借りた。明大付属中野高校の定時制に再入学。このころ母から画家・堀文子さんを紹介される。堀さんは君平さんの若い才能を絶賛し、仕事を紹介してくれた。 |
| 《白と黒の時代》 昭和37年、「漫画読本」で切り絵漫画家として本格デビューした。22歳だった。そしてその作品に心打たれた女性がいた。のちに夫人となる英子さんだ。 翌年、転校した盆進高校を卒業。谷内六郎氏の後押しで、新宿伊勢丹ギャラリーで 初めての個展「白と黒の世界」が開かれ、大評判となる。 そして12月21日結婚。 年が明けた昭和39年、英子さんと渡米し、6ヶ月のニューヨーク生活を経て、帰国。12月には始めての絵本「びりびり」出版。絵本や童話などの創作活動に取り組む。翌年、長期に渡って、フランス、オランダ、北欧をスケッチ旅行。犬年の昭和45年、松屋にて紙ねんどによる「101匹のわんちゃん大行進」開催。子どもたちの人気を博す。 |
| 《あたらしい道》 昭和48年から、ライフワークともいえる、毎日新聞の「おはよう童話」の連載が始まる。それを機に、仕事は絵よりも文章に比重がかかるようになる。 それからしばらくして、「週間文春」に「イラストライター廃業宣言」の広告を出し、世間を驚かす。 翌年には「詩とメルヘン」で「くんぺい魔法ばなし」の連載が始まる。昭和51年には甥の山口さんと娘の菜奈ちゃんと西表島を横断し、その奮闘ぶりを「山猫の島横断期」にまとめた。 続々と本が出版される中、「おはよう舎」設立。この年「毎日広告賞第一席」、昭和52年、「毎日新聞社・児童文学賞」、昭和53年、「詩とメルヘン賞」受賞。昭和53年・55年、アフリカを訪れ、翌年、「くんぺいごしちごアフリカえほん」を自費出版し、収益を全額アフリカへ送る。 昭和58年、君平さんは別荘を借りた小渕沢が気に入り、「いつか、ここに僕の美術館を建てられたらいいなぁ」と夢を持つ。その土地に後に「くんぺい童話館」が建つこととなる。 |
| 《消えない魔法》 昭和61年、家族旅行をした。ハワイ旅行、神戸旅行、スリランカ、モルジブetc。 何年分もの家族サービスをまとめて行ったような行動だった。 夏の終わりごろから、風邪っぽいと言っていたようだったが、精力的に仕事をこなし、「くんぺい美術館」の実現に、夢を膨らませていた。 昭和61年12月3日。君平さんは肺炎のために亡くなった。 永遠に消えない「魔法」を私たちにかけたまま、風のように、昭和という一つの時代を走り抜けていった。 |